コースタイム:
JR東京駅[6:28](はくたか551号)⇒JR高崎駅[7:17/7:42](上越線)⇒JR新前橋駅[7:36/7:42]⇒タクシー(7890円)⇒姫百合駐車場[8:22/8:30]→展望広場[9:20/9:25]→見晴広場[9:38]→荒山[10:07/10:12]⇒前浅間山[10:31]→軽井沢峠[10:41]→牛石峠[10:48]→牛石山[10:53]→銚子の伽藍(上部)[11:00]→銚子の伽藍(河原)[11:15/11:20]→長七郎山登山口[12:00]→長七郎山[12:15/12:23]→鳥居峠・レストラン[12:53/13:15]→赤城公園ビジターセンターBS[13:23/13:40](バス)⇒富士見温泉見晴らしの湯⇒タクシー(5730円)⇒新前橋駅[16:17/16:40]⇒高崎駅[16:50/ ] ⇒大宮駅
トレイルマップ
☆クリックすると地図が拡大します↓
|
高度記録
☆高度記録拡大は画像をクリック↓
|
今日は銚子の伽藍を眺めるのを目的に、新幹線特急料金を奮発して新前橋駅までやって来た。銚子の伽藍とは、粕川が赤城山の外輪山を侵食して流下する部分の両岸が極端に狭められているので、銚子の口に例えて命名されたそうである。
タクシーに40分程乗車し、箕輪バス停少し先の姫百合駐車場で下車、すぐに良く整備されて歩き易い登山道に入る。快調に1時間位登った辺りから、綺麗に色付いたモミジが目を惹くようになった。さらに進むと眺望の開けた所(見晴らし広場)に出て、山の斜面が麓の方へ向かって、色とりどりに染まっているのが見える。眼下には広大な関東平野が見下ろせ、いつもながら関東平野の大きさに圧倒される。西にはデコボコした山頂が連なる榛名山、その奥には浅間山や浅間隠山も見えている。
さらに笹原の中の緩やかな径を登って行くと、やがて露岩のある急斜面となる。登り切ると石の祠が山頂を守る荒山に到着。ここは眺望がないので、一休みして先を急ぐ。ここから急斜面を一気に下って行く。下る途中で後ろを振り返ると、片側が急傾斜になっている荒山が見えた。なるほど、急降下だった訳だ。
さらに笹原の径を進んで行き、軽井沢峠、牛石峠と通過する。牛石峠の道標から100mほど山道を入った所に大きな岩があり、「日本武尊伝説の石/牛石」という立て札が傍らに立っている。全く山頂らしくない牛石山の山頂標識を過ぎると、まもなく切り立った崖っぷちの上部に着いた。ここが銚子の伽藍で、崖の下方を恐る恐る覗いてみるが、かなりの高度の断崖絶壁で、下の方は良く見えない。(牛石については下記の★を参照)
この後は河原の方へ下って行くと水音が聞こえて来た。淵から下を覗くと、川の水が洞窟のような大きな穴に吸い込まれて行くのが見えた。銚子の伽藍の、まさに驚異的なゴルジュ地形(狭くそそり立つV字峡谷)を眺めた後は、長七郎山を目指す。河原沿いの径が不明瞭で分かりにくかったが、無事笹原の中の登山道に辿り着いた。樹林帯の中をしばらく登って行くと、急に開けて石がゴロゴロした径となる。山頂が急に目の前に現れる。
ほんの一登りですぐに山頂に到着。中学生の集団がちょうど下山開始するところだった。山頂には大勢の人が休憩していたが、少しだけ密集を免れた。山頂からは先ほど登った荒山がキリっとした姿で、格好よく見えている。広々した関東平野、榛名山、四阿山などの眺望を楽しんでから、いざ下山。良く整備された歩きやすい径で、あっという間に中学生の団体に追いついたが、休憩中だったようで難なく追い越す事が出来た。
鳥居峠にあるレストラン(かつてのケーブルカーの駅舎)にてお疲れ様のビールを飲んだ後、ビジターセンターからバスに乗る。途中下車して富士見温泉見晴らしの湯に立ち寄った。泉質は柔らかく、露天風呂は開放的で、心地良い温泉だった。
今日は天気が良くて紅葉も綺麗だったし、眺望も楽しめて良かった。が、何と言っても銚子の伽藍のゴルジュ地形が面白く、はるばる行った甲斐があった。(なお)
★〈牛石の伝承〉 富士見村教育委員会が昭和57年に出した「ふるさとむかしばなし」に以下の話があるそうである。『むかし、大和の朝廷軍が「えぞ」の軍と戦いましたが、おもうように戦果をあげることが出来ません。そこで、赤城明神の力にすがろうと、朝廷軍の大将は赤城明神に参拝して祈願しました。その帰り、牛に乗って峠まで来ると、急に眠気がして一寝入りしました。目覚めると、繋いでおいた牛が見当たらず、牛の形をした大きな岩が横たわっていました。これは牛がねむったまま岩になったものといわれ、この峠を牛石峠と呼ぶようになりました』
〈銚子の伽藍のゴルジュ地形と赤城山の火山活動について〉
赤城山は地形的に変化があってとても面白いところだ。今回は赤城山の南、関東平野側を、荒山から小沼火山の縁をたどり、銚子の伽藍というゴルジュ地形(狭くそそり立つV字峡谷)の名所まで歩き、そこから粕川左岸を登りつめて長七郎山まで登った。
歩いていて、火山灰や白っぽい軽石・スコリアだらけなのが気になった。風化してザレている場所も触ってみると凝灰質の砂礫か軽石ばかり。銚子の伽藍の北側、川が削った崖は湖底の名残りのような地層が切り立って露出していた。粕川から崖の上までは50〜60mくらいあるだろうか。1年で0.5cm川が削るとして100年で50cm、1000年で5m。ここまで削れるのに単純計算で1万年くらいかかったのかな、などと考えながら歩いた。成り立ちに興味をもったので、赤城山の火山活動について少し調べてみた。
赤城山の初めの噴火は約50万年前と推定されている。当時は大きな裾野をもつ成層火山で富士山のような形だった。約20万年前ころから(噴火が進みマグマの温度が下がってきて)爆発的な噴火が多発、火砕流や山体崩壊による岩くずのなだれで広い山麓を形成した。その後、約15〜13万年前ころに崩落したカルデラの中央付近に崩壊地形を覆うように火山活動が活発化し、黒檜山・駒ヶ岳などの溶岩ドームが形成された。その側火山として荒山、鍋割山などの溶岩ドームができた。
3万年前には活動が再び活発化し、鹿沼降下軽石をさかんに噴出した。それに続いて地蔵岳溶岩ドームと、小沼火山、見晴山が中央火口丘として噴出した。結果として黒檜山や駒ヶ岳等が外輪山として残っている内側にそれらの中央火口丘と、分断されたカルデラ湖が形成された。小沼火山は、小沼タフリング(タフとは火山灰のこと)と呼ばれ、爆裂した火口に水がたまり小沼ができた。当時は今より大きかったが、粕川から排水したため、現在の大きさになった。
「吾妻鏡」によれば、建長三年(1251年)執権北条時頼の時代に赤城山が焼けたという記載がある。「赤城神社伝来記」(古文書)にも建長三年四月十九日に荒山が焼け、石砂を降らすことおびただし等の記述がある。噴火の証拠となる火山灰層ははっきり見つかっていないので、水蒸気爆発をした可能性があると考えられている。
調べてみて、銚子の伽藍から南の裾野に向けてのきれいなV字谷は、
(地質的には)「ごく最近にできた峡谷」だったのだとわかり、とても興味深かった。縄文時代には、あの谷の深さは半分くらいで、岩宿遺跡の旧石器人の時代には、まだ小沼が大きい湖だったのかもしれない、なんて、妄想するのは楽しい。(この)
<参考文献>
『ぐんまの大地 生いたちをたずねて』,
「ぐんまの大地」上毛新聞社,2009,2010(初版第2刷)
『赤城山』気象庁ホームページ
今回の参加者:副隊長、このちゃん、のりちゃん、なおちゃん
実働時間:4時間8分
累積登高差(+):987m
踏破距離:8.8km
|